大阪冶金興業ブログOsakayakin's Blog

2019年の年頭に当社の歴史を振り返れば

2019年01月28日

 ご安全に!

 今年は日本の元号が変わる年となります。スポーツの世界ではラグビーワールドカップ、来年はオリンピックという2つのスポーツの祭典が開催されます。

 2019年の年頭のご挨拶ということもあり、当社の歴史を少し振り返りたいと思います。
 大阪冶金の創業時の1941年は、太平洋戦争開戦の年です。日本が米国を相手に戦争に突入した時代です。当社はそのような時代の趨勢において、国のためのお仕事をするために、瑞光という土地を選んで軍需関係のお仕事を始めました。国を衛るための戦争、それは銃後の守りと言われるものですが、そういうお仕事をさせていただいたのが当社の始まりでした。

 1945年(昭和20年)8月15日終戦を迎え、まだ仕事と呼べるようなものがない頃に、当社にあった電気炉を使って近所の方に、おせんべいを焼いたりビスケットを焼いたりして配っていました。それが昭和24~25年まで続きました。

 やがて朝鮮半島に朝鮮戦争が起こり、経済的には朝鮮特需という現象が起こりました。当社もその流れに乗って鉄条網の針金をなます仕事をお引き受けしました。これはそのままでは扱いにくい鋼を熱処理して柔らかくする技術を生かしたものです。また砲弾の金型の熱処理を手がけたのもその頃です。

 その後もいろいろなものを熱処理しています。なかでも技術的な革新と言えるものの一つは、ガス窒化処理です。これはゼロ戦のエンジンのシリンダーの内壁に窒化処理をした技術ですが、当社はその技術を採用して日本で初めて鋼の窒化を工業規模で営業開始したのです。それから60年が経過し、今ハイナイト(Hi-NiTo)処理でその技術が応用されています。

 次に大きな変化があったのは1970年(昭和45年)です。真空炉1号を導入したのです。それまでは大型の電気炉、重油炉を使用し素材の調質など様々な熱処理を行っていました。真空炉1号導入後、ガスタービンのブレードの熱処理の仕事をお引き受けすることになりました。それからおよそ50年、当社は、そのブレードの熱処理である溶体化処理そして時効処理、真空炉中ろう付けなどを仕事の中心に据えてきました。

 次の大きな変化はMIMです。MIMは1900年代の終わり98年から2000年にかけて本格的に取り組み始めました。これも大きな変化です。熱処理というのはお客様の製品を預かり、それに熱加工して、お納めするという加工業(受託加工業)でしたが、MIMではお客様が要望される製品を製造しました。これは加工業から製造業に変わったということです。

 そしてその次となるのが粉末冶金をベースにした3D、金属粉末積層造形です。現在は医療関係を主体に取組んでいます。

 このような歴史を刻みながら当社は仕事をしてまいりました。2019年は、こうした歴史の重みを受け止めながら、やがて80年を迎え、そして100年に向かって歩みたいと思います。

 ご安全に!どうもありがとうございました。